車いすを「前向き」に押した介護職員の過去
【隔週木曜日更新】連載「母への詫び状」第十三回
■車いすを前向きに…思わず怒りがこみあげた
〈連載「母への詫び状」第十三回〉
「介護で一番大切なことはなんですか?」
こんな質問をされたら、こう答えたい。
「イライラしないことです」
介護人になる前、ぼくは性格的に短気で、何かにつけてイライラする人間だった。
コンビニで無駄話をしているレジの店員の態度にイラつき、3月の今の時期なら税務署から送られてくる確定申告の書類に、「こんな小さな住所記入欄、まともな字の大きさで書いたらはみ出すに決まっているのに、なぜ改善されないのか?」と、どうでもいいことに怒る。
それが介護生活を始めてからは、めったにイライラしなくなった。年老いた父や母に機敏な動作ができるはずがないし、ひとつひとつのことを急かすのが一番良くないと知った。病院で2時間待たされてもそれが普通なのだから、怒ったところで何の得にもならない。
ただし一度だけ、介護職員に対してキレそうになった出来事がある。
うちの母は自宅生活の期間、週に2日、デイサービスを利用していた。朝、施設の職員がワゴン車で迎えに来て、車いすの母を乗せ、他のデイサービス利用者と一緒に施設へ連れて行く。
そこでお風呂に入れてくれたり、お昼ごはんを食べさせてくれたり、軽い運動タイムやレクレーション・タイムがあったりして、およそ半日を過ごし、夕方になるとまたワゴン車で自宅まで送り届けてくれる。
ある日のこと。朝、迎えに来た人の中に、見慣れない男性が混じっていた。年齢は50歳から55歳くらい。お世辞にもキビキビしているとは言えず、ひとつひとつの動きがモタモタしている。慣れない様子で、おそらく新人なのだろう。
「どうしてこんなオジサンが、新人で福祉センターにいるんだ? リストラか何かの理由で、仕方なく転職したんだろうか?」
失礼な勘繰りと知りつつ、こちらは母をあずける立場である。100パーセント信頼した上で任せたい。不安に思いながら、車いすの母を玄関から送り出す。
すると玄関からワゴン車まで、その男性が母の車いすを押していくことになった。と、次の瞬間、ぼくは思わず大声をあげそうになった。
「おい! ちょっと待て!」
実際に「おい」までは声に出た。うちは玄関を出てすぐ、下りの段差があり、そこを通るときは車いすを後ろ向きにしてから下りる。前向きのままで段差を下ろすと、乗っている人間が前方に落ちてしまう危険があるからだ。だから車いすを後ろ向きにして、ゆっくり段差を下ろし、そこでまた前向きに戻す。
ところが彼はそれを知らず、車いすを前向きのまま、下りの段差を進もうとした。
ぼくが「おい!」と口にした瞬間には、隣にいた職員も事態に気付いてすぐに静止してくれたから、何事もなく済んだ。新人に車いすを任せたわけではなく、見守りつつ押させてみたという状況だったのだろう。それでも、こちらは一瞬ヒヤリと血の気が引いた。